明治から今なお続く術科学校の伝統『津久茂帖』を知っていますか?

明治より、今なお続く『津久茂帖』

先週末に行われた幹部候補生学校の卒業式。
厳かな雰囲気の中、島を巣立っていかれました。

江田島のお寺に、『津久茂帖』という寺宝が存在します。
それは、海軍兵学校が江田島に移転した、明治時代より始まり終戦まで続き、兵学校の生徒達が厳しい訓練の合間のひとときにお寺に訪れて記名し一言思いを綴ったものです。

その一言も、昭和になって戦局が厳しくなるにつれ、当時の戦況が伝わる言葉が綴られています。
時代、時代により記名に加えて書かれた一言が変わるのが、世相を表しています。

戦後は、兵学校の卒業生やご遺族の方、またお寺を訪れた方が、懐かしい思いや平和への思いを綴っています。
ここ数年は、卒業を前に幹部候補学校の生徒さんも訪れ、思いを一言書いています。

かつては学生達に山寺と称された、江田島町津久茂にある『品覚寺』。
江田島湾が一望できるこのお寺には、今年も生徒さんが記帳し、世相は語られます。

術科学校見学の際は、足を伸ばしてみてはいかがですか?
訪問される際は品覚寺にご連絡ください。

「江田島へ行こう」さんがFacebookに投稿していた記事です。

この投稿を見て、江田島市の津久茂にある品覚寺さんに伺ってきました。
術科学校から車で約20分です。

戦争の資料というのは広島では珍しくないですが、明治より、今なお続いているということ、遺族の方やご本人によって更新されることに興味を抱きました。

古い『津久茂帖』。

最近の『津久茂帖』。

戦時中は、「撃滅」「一刀両断」「死」「肉弾」・・短く、激しい言葉が多いです。

「散る」という言葉も多いです。
蕾のまま、戦地で花となり、そして散っていった若者たちもたくさんいたのでしょう・・。

戦時中の言葉は異常というか。ガツンとくるのですが、たくさんあると見慣れてきて、それも切ないです。

終戦後は内容も変わります。
「散る桜」が「残る桜」に。

戦後からやや時間が経つと、遺族の方や再訪された方が想いを綴っている頁が増え、それもまた胸を打ちます。

高橋治さんは戦地に行くことがなかった第75期。
60年後、再び品覚寺を訪れ、「死」の下に「生」を書き加えました。
墨の色が違っています。

すでにお亡くなりになったそうですが、再び訪れたその時はどのような気持ちだったのだろう。
当時の気持ち、60年後の気持ち。

「死」と「生」の間には、楽しいときも、苦しいときもあって、そんな時も戦地で亡くなった同胞と共にあったのではないのか。
誰かの分も生きるという重みを想像してしまいます。

戦後72年。
年に何度かでも戦争がどんなものだったか触れる機会を設けることはとても大事なことだと思います。

今年も卒業間近の幹部候補生200人が、100人ずつ2日に渡って品覚寺を訪れたらしいです。
明治からの伝統が、今なお受け継がれています。

『津久茂帖』は手にとって見ることができます。
それは貴重な機会で体験です。
手にとって、眺めて、何より肌で感じられる『津久茂帖』を見れて良かったです。

術科学校を訪れた際には、ぜひ足を延ばしてみてください。


術科学校を眺めることができます。

※資料は許可を得て撮影させていただきました

詳細情報

品覚寺(ほんかくじ)

住所:広島県江田島市江田島町津久茂2丁目17−21
電話番号:0823-42-1394