丸2年かけて眼鏡橋の模型を製作した偉業・・本当の眼鏡橋は今も地下に眠っている

一枚の写真に心を奪われ、なぜだか自身の使命を感じてしまう・・・人にはそんな出会いがある。

亀迫重信さんは呉市在住、かつてお茶屋さんをされていたが数年前に引退し、今は保護司のボランティアをしつつ地域の活動に励んでいる。現在71歳。

亀迫さんにとってのその一枚は、2002年に呉市制100周年記念の際に配布された広報の表紙にあった、この古い橋の写真だった。この橋の名前は「眼鏡橋(めがねばし)」。

(広島県立文書館より)

眼鏡橋のカタチがわかる唯一のその写真は、平成に入ってから福山の方より呉市に提供されたものだ。
それまで眼鏡橋の存在は確認されてはいたが、資料はほとんど残っていなかった。

眼鏡橋の本当の姿

セピア色のその写真は、現在の青山クラブ付近から撮影された眼鏡橋。
呉を知る人は「眼鏡橋」と聞いて思い浮かべるのはJRの高架橋の一帯だ。
亀迫さんも橋から数百mの場所に居を構えながら、50年間ずっとそう思っていた。

「幼い頃、地下で遊んでいた時に見たあの古いトンネルがそうなのだろうか・・?」

(現在「眼鏡橋」と呼ばれている場所。この道路の下に本当の眼鏡橋はある)

調べていくうちに、地下に埋もれているあのトンネルこそが本当の眼鏡橋で、今から130年前に造られたものだとわかった。

カニを採って遊んでいたあの橋が、近代呉の歴史に重要な役割を果たしたものであることを知った。その事を知っている人はほぼいない。

「橋のことを知らせなければ」という使命感と、眼鏡橋から紐解いた呉の歴史の面白さに夢中になった。

そして、写真と少しの資料を元に、分類・分析・現地調査を重ね、2年の歳月をかけて40分の1のスケールの模型をたった一人で作り上げた。




(模型製作で使った道具)

近代呉の歴史

呉港付近は、戦時の名残りがある町並みだ。今は海上自衛隊の施設、造船所、公園などが広がっている。

明治初頭、現在の入船山から海側にかけて「宮原村」があり、1000軒近くの民家が建っていたとはにわか信じがたい。

(昔の地図)

旧呉鎮守府の開設に伴い、その一帯を海軍が買い上げた出来事は、日本の住民移動の歴史の中でもかなり大きなものだったようだ。宮原村の中にあった呉町に至っては完全に消滅した。土地に根ざしていた神社も寺も場所を移した。当時の海軍の権力は凄まじいものだった。

鎮守府(ちんじゅふ)は、かつて日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関。
全国に、横須賀鎮守府 呉鎮守府 佐世保鎮守府 舞鶴鎮守府がある。(wikipedia参照)

明治16年、「海軍条例」によって全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くことになった。第二鎮守府が呉に定められるということは、それはそれはすごいことだったようだ。

(ちなみに、眼鏡橋の頭上は高架が走っていますが、当時国鉄が眼鏡橋と並走させようとしたのを海軍が許さなかったので高架になったらしいです。)

(呉鎮守府 広島県立文書館より)

眼鏡橋の建設

そんな絶対的な権力を持つ海軍が、旧呉鎮守府最初の施設として作った眼鏡橋は、やはりというか、当時の最高の建築技術を結集させたものであった。

設計には、工部省 海軍 呉鎮守府建築委員の土木技師 石黒五十二(いしぐろ いそじ)氏、同じく工部省 海軍 呉鎮守府建築委員であり工部大学(東京大学建築学科の前称)の建築技師 曽根達蔵(そね たつぞう)氏が任命された。

石造りの橋をつくるため、全国から石工職人が集められた。彼らは技師によってさらに呉海軍独自の特殊な仕様に作るよう教育を受け、護岸使用書に従って施工するよう技術指導を受けた。

土台には700本もの丸太でできた杭を打ち込み、岩国の錦川の粘土・栗石・玉石を敷きつめ、その土台の上に徳山産の御影石を最高度の野呂積みで13段積んだ。材料は船で運んだ。

18,000〜19,000人もの人が建設に携わった。工事人夫等はかつての住民の数を超え、天地をひっくり返した様子だったという。難工事で、怪我人が多数に上り、犠牲者も出たようだ。

出来上がった橋は、橋長26.2m 橋幅(アーチトンネルの長さ)18.7m
水路幅3.6m  堰堤高4.6m

手のこんだ建築物であることは、素人の私にもわかった。

眼鏡橋の役目

眼鏡橋は、呉鎮守府開庁時に川の砂を海に流さない為の砂溜地・砂防池が目的だった。
明治20年8月に工事が着手され、建設当初は「境橋(さかいばし)」として架橋されたが、明治21年3月の完成後には「眼鏡橋(めがねばし)」と呼ばれるようになった。

完成した眼鏡橋を起点に、呉の国道がつくられた。

民家が立ち退いた場所には、鎮守府の組織として海兵団、海軍病院、刑務所等ができていった。眼鏡橋の周辺には、軍に関係する1000社もの御用商人たちが軒を連ねた。

眼鏡橋を通ってたくさんの人と物資が運ばれ、新たな軍港がつくられていった。

呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)が設立されると、日本一の海軍工廠と言われるほどになり、呉は軍港としてどんどん発達していった。

橋は陸の窓口として、海軍と一般の人を隔て、そして結んだ。

(眼鏡橋 広島県立文書館より)

忘れられた眼鏡橋

しかし、膨大なお金と労力を費やして完成した眼鏡橋も、拡大兵員が増えるに伴い拡張増築工事がくり返され、また鉄道敷設もあり、川を除き石垣で埋められてしまう。

全体を見ることができたのは、明治20年から昭和6〜7年のたった40数年余り。

そして地名だけを残し、橋そのものの存在は忘れられてしまった。

この素晴らしい眼鏡橋の存在を知って欲しい。

これが亀迫さんの想いだ。

眼鏡橋の謎

眼鏡橋のことを知りつくしている亀迫さんにも解明できない謎がある。

「眼鏡橋の穹窿(きゅりゅう)の中央左下部分に、幅82センチの枝杭道(えだこうどう)が見つかったけど、土砂で埋もれていて、どこに繋がっているかがわからないんです。」

(現在の眼鏡橋)

(枝杭道 土砂で埋もれてしまっている)

残された資料も、その部分に関しては曖昧に書かれているのだそう。

人が一人、立って歩ける大きさの通路。
そして枝杭道の部分を作らないと橋は作れない。その部分だけでも大規模な工事だったはず。

「要人の秘密の通路で、繋がった先は旧呉鎮守府だったのでは?」亀迫さんの見解だ。

いつか謎が解ける日がきて欲しい。

地下に眠る眼鏡橋

今、眼鏡橋を見ようとしたら、トンネルの暗闇の中をひざ下ほど水に浸かりながら百メートル以上歩かなくてはならない。

(この先に「眼鏡橋」がある)

私はトンネルを前にして断念してしまった。

「深い部分もあるし、危険なものも埋まっているよ。一人はおすすめしないな〜。その事故で亡くなった人の魂もたくさんいるしね」

そんな場所に亀迫さんは何度も訪れ、調査を繰り返していたのだ。
そして2年の歳月をかけ、精巧な眼鏡橋の模型を作り上げた。
その情熱に動かされ、私も文章を書かせてもらうことになった。

亀迫さんは眼鏡橋に呼ばれた人だ。そして私もその一人なのだと思う。

今も高架橋の地下に「眼鏡橋」はあります。

眼鏡橋情報

模型はいずれは呉市に寄贈されるそうですが、時期は不明とのこと。

こちらにも亀迫さんが書かれた眼鏡橋の情報がありますのでご覧ください。
チェッ呉 → http://checkure.jp/meganebashi-gaiyou.html

(語り・資料・文 亀迫重信 /  構成・文 かげこ)